脱毛の公開パターン
口にしたのは、看護婦が差し出してくれたストローから飲んだジュースだけである。
喉は乾くが空腹は覚えない。
尿意も覚えない。
ひたすら患部に集中する手術という仕事は、生理としてそのような作用をもたらすのである。
Hさんは、昏睡状態のまま、ICUへと運ばれて行った。
移植が成功であったかどうかはこれからの推移をみなければわからないが、とりあえずの措置は終わった。
ICUで横たわっているHさんの様子をしばらく観察し、ようやくTは手術着を脱ぎ、白衣に着替えた。
病棟入院中の他の気がかりな患者の様子を見回ってから教授室に戻った。
秘書から渡された連絡メモに目を通し、二、三電話をかけた。
それからようやく、しばしまどろむため、部屋の隅、ソファーの毛布の中に潜り込んだ。
ものである。
ップする気持はまるでなかった。
右から攻めて駄目なら左から、左が駄目ならからめ手でもなんでもいい、とにかく退く気持はまったくなかったですよ。
手術の意地とでもいうんでしょうか、諦めてしまえばその時点ですべては終わりですから」ドナーとなったSの意識がはっきり戻ったのは、開腹された時間からいえば十七、八時間後、翌日の早朝だった。
まず、妹は……と思ったが、そのとき、Hさんは生死の境にあった。
Sにとっても、肝臓のおよそ十分の四、左葉を切除したわけである。
なにもないわけはない。
三日間は、痛み、嘔吐感、発熱が続いた。
常に吐き気があって眠れない。
このままの状態が続くならたまらんな、と思ったが、やがて症状は沈静化していった。
妹の状態も断続的に入ってくる。
予断は許さないが、なんとか助かってくれるようだ。
頭は近づく教員試験のほうに向いた。
五日間で退院し、高知に戻る。
一次試験はパスしており、八月二十五日の試験は論文と面接であった。
論文のテーマは、八百字で「二十一世紀の教育」。
その日、まだ手術の糸は抜けていない。
痛みは薄らいでいたが残存し、腹部から背中のほうに移行していた。
試験場でもまっすぐ背中が伸びない。
そのせいではないというのであるが、この年、教員試験の結果は不合格だった。
教員試験は狭き門である。
翌年も不合格であったが、その後臨時教員として採用され、現在、県立高校の社会科の授業を受け持っている。
さまざまなことを体験した一九九八年の夏-。
いまは思い出としてしまい込まれている。
自身の選択にはまったく後悔していない。
腹部もいまは、ふとした拍子に張りを知覚することがある程度である。
Hさんの術後は山あり谷ありの状態が続いた。
手術日の翌日、出血が止まらず、止血のための手術を行なっている。
その後一年の間に、門脈部の流れをよくする矯正手術、ヘルニアの除去、バルーンを使って血流をよくする措置など、二度、三度と開腹をしている。
感染も起きたが、幸い、拒絶反応は軽微だった。
彼女にとって、辛い日が続いていく。
無口であったが、調子のいい日、回診でGが話しかけるとうなずき返す。
表情の豊かな子であった。
枕元にカセットプレーヤーが置いてあって、お気に入りはジョンーコルトレーンのテナーサックス曲。
えらく渋めの趣味なんだなと、Gは感心した。
状態がおもわしくないときもつらさを訴えてくることは少ない。
おとなしいが芯の強い子であることがわかる。
患者の精神力の強さは回復力の要素のひとつである。
期待を込めて、なんとか乗り越えてくれるんじゃないかと思ったものである。
状態は徐に回復し、高知に帰郷できる日がやってきた。
その後は県立C病院に通院しつつ、節目節目にK大病院にやってきた。
そのつど問題はありながら、よくぞここまできたもんだと、かつての手術場のことを想起しながらGには感慨がよぎるのだった。
一九九九年三月、Hさんは元気な姿で中学の卒業式に臨むことができた。
いまは県立高校の通信部に通う身である。
おそらく同世代の若者が一生かかって遭遇する病の何倍かを体験し、潜り抜けてきたといえようか。
いま、状態は良いが、先のことは神のみぞ知るである。
母のMはこういう。
えていけるだろうと楽観的に考えるしかないですよね。
O型の特徴なんでしょうか、私は、苦しむときは苦しむのですが、それが過ぎると忘れちゃう。
なんとかなるだろうと思いましてね、緻密じゃないんです」そういって、はじめて口もとを緩めた。
それは性格や血液型とはかかわりなく、重い病気を抱えた子と長く付き合う親の普遍的な心境であるように思えた。
父のKは、このほど勤務してきた保険会社の早期退職制度を選択した。
五十代半ば、故郷で第二の仕事探しをはじめている。
この先、社会に出て自分で生きていけるようになれるのか、結婚はできるのかと、次の心配をはじめてしまいます。
次から次へと心配の種はつきません」これまた、子をもつ親の共通の想いというものであろう。
Hさんは高校では絵やデザイン画の授業が好きという。
将来そんな方向に進めたらいいね、と私は尋ねた。
小さな笑みとともに、「ええ」という答えが聞かれた。
鳥取・米子での用事を済ませて、山陰線に乗った。
単線で、列車は二両連結である。
乗客はまばらだった。
列車は海岸線に沿って西へと向かう。
車窓からは海と林と小さな集落が交互に流れていく。
目的地は温泉津。
当地を訪れるのは久であった。
ある少年の顔を見るのが目的のすべてであった。
E君という。
電話によれば、保育園に通っていた幼児はもう中学生になっているという……。
温泉津駅で車輛から降りたのは私一人だった。
改札を抜けると、少年の父が出迎えに来てくれていた。
駅前に、大きく「温泉津温泉」と書かれた看板が目に入る。
この地は遠い昔から高温の黄土色の温泉が出る。
温泉宿か並ぶ一帯を中心に、海岸線に沿って人家が並んでいる。
人口四千数百人。
ひっそりとした山陰の町に早春の日がやわらかく落ちていた。
Eさんの自宅は駅から車で数分のところにあって、仕出し屋兼用の旅館を営んでいる。
家族は、光雄さんと夫人のCさん、長男、長女、次男の寛彬君を加えた五人家族である。
しっかりものの夫人と好人物の旦那さんというのが初対面の印象であったが、再会してすぐ、その印象がぶり返した。
次男がK大で生体肝移植を受けたのは、一九九〇年六月である。
生体肝移植を包む空気はいまとはまるで違う。
いわば実験的治療の段階で、ドナーとなったCは、京都での移植手術を前にして、子供の死はもとより、自身の死をも覚悟して亡き母の墓参りに行ったものだった。
振り返って、三十八年間の人生、ここで断ち切られたとしても悔いはない。
ただ、三歳で終わる人生とはいかにも理不尽に思えてならなかった。
Eの疾患は胆道閉鎖症であったが、本来、幼児にして亡くなるケースをたどっている。
生後二か月、疾患名が判明する。
その折り、および四か月時、出雲にあるS病院で葛西式手術を受けた。
二度目の手術を執刀したのは、当時C病院に勤務していたTである。
ちっとも偉ぶらない先生、という印象がE夫妻に残っている。
振り返っていえば、この偶然のつながりが移植手術へと結びつく。
術後の経過は思わしくなかった。
幼児の顔色は常に黄色っぽい。
再び胆道が詰まって、胆汁が血液中に漏れ出しているということである。
下血や吐血する頻度も増えていく。
Tは小児外科を専攻してきた外科医であったが、島根からK大に戻って以降、移植外科の研究に乗り出す。
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